先日、会社の1年に1回の大イベントがあった。私は舞台裏で司会のサポート係としての役割を全うし、20:00頃、帰路についていた。日中は、進行がスムーズに進むか、舞台上で不具合がないかに気を遣っていたため、思ったより体が疲れていたようだ。
家に帰って早く、
冷たい炭酸水を飲みたい!
と、はやる気持ちを抑えながら、安全運転で帰宅していた。(断酒続行中なので、ビールではないのだ!)
山の方から海の方に向かって車を走らせていて、家まで残り10分となった頃。ふと、向こうの方に、明るく光る輪っかが、弾けて、消えた。
あっ…!!
はっ、花火やーーーん!!
海岸の方に、花火が上がっている!!
そこまで大きくは見えないが、
ポンポンッ、ポポンッ
と、鮮やかな色の花火が、次々と上がっている!
なにこれ、どこで上がってるの〜!
サイコーや〜ん♪
まぁ正直、花火大会を毎年チェックしたり、会場に行って眺めたりするほど行動的ではないが、やはり花火が上がっているのを見ると、心躍る♪
"パッと光って咲いた"
と思えば、次の瞬間には散っていく。その儚さに、日本人特有の侘び寂び(わびさび)を感じてしまうのだろう。
花火って、いいよね〜。
そういえば、若い頃は、花火に対してもう少し真剣だったということを、ふと思い出した。
実は、大阪の実家のマンションからは、大きな河川敷が人で埋め尽くされる「淀川花火大会」と、日本三大祭のひとつ「天神祭の奉納花火」が、ベランダから見えていた。
淀川は少し遠いが、天神祭の方は結構近くに見えたのだ。
さて、私が二十歳の頃、父が親しい友人を1人自宅に招き、エアコンの効いたリビングで、窓の外に見える天神祭の奉納花火をアテに、なんなら、花火のテレビ生中継もつけた上で、ビールを飲んでいたことがあった。母がおつまみを作って、父と友人は陽気な時間を過ごしていた。
今の私なら、迷わずその席に同席して一緒に楽しんでいただろう。
しかし、私はその時、暑い中1人ベランダに出て、何を飲むでも食べるでもなく、椅子に座って、真っ剣に花火を眺めていた。
父の友人が来ていて、ちょっと恥ずかしかった、というのもあったかもしれない。
しかし、それ以上に、
窓越しではなく、
もちろんテレビ映像でもなく、
"本物"の花火
を感じたかったのだ。
つまり、生で!ライブで!打ち上がる花火を
この目で見て、
この耳で聞いて、
その空気感を感じたかった。
例え暑くても!
テレビの方が大きく綺麗に見えたとしても!
煙幕がこちらに流れてきて、時折花火が見えなくなっても!(これ切ない)
ドンッ、ドンッと腹に低く響く音と、目の前で散っていく儚い花たちの、その一瞬一瞬を、忘れないように胸の内に刻んでいたかったのだ。
…あぁっ!
あの頃のこだわりって、いつのまにか散りかけてしまっていた気がする。
歳を重ねるに従って、わざわざその場所に行って本物を生で見ようとか(あ、この場合その場所には行ってないけどね)、空気感を感じようとか、そんな気持ちが薄れてきたように思う。
元々、映像情報も溢れていたが、さらに、コロナ禍の影響により、オンライン配信サービスも発達・普及して、「ライブ」とか「生」などの"本物"に触れることが少なくなり、ますますそんな状況に慣れてしまっている。
しかし、ふと、花火を垣間見て、そんな回想までして
"本物"を感じる
ということについて久々に考えた。
ま、フロントガラス越しだけど。
そうこうしているうちに、道の角を曲がってしまったため、角度的に花火は見えなくなった。
そんな刹那的なところも、ニクいよね〜。
ちょっとテンションが上がって、体の疲れもなんとなくなくなった気がした。
さぁ、帰って冷たい炭酸水を飲もう♪
そして、来年こそは、
"本物"の花火を…!!
コメント
おしいっ!
非常におしいっ!
昔々あなたはPL花火がどどどどーんと見えるところに住んでいたのだよ❗
私?
二年続けて招待して頂いたのに
二年続けて弟が当日熱出して
行けなかったのだ😠
物心つく前は、PL花火が家から見えたそうですね〜!見たかった!